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図書室

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渡瀬裕哉著
「税
金下げろ、規制をなくせ 日本経済復活の処方箋

​光文社新書

はじめに 

 戦後の高度成長を経て、1980年代の日本は世界で最も勢いのある経済大国でした。 アメリカの社会学者エズラ・F・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)がベストセラーになった時代です。

 しかし、1990年代に入り、バブルが崩壊、経済は停滞し、「失われた10年」と呼ばれるようになりました。2000年に入っても激的な変化は訪れず、「失われた10年」は「失われた20年」に置き換わりました。そしていまだに不況脱出はならず、もはや「失われた30年」です。 

 僕は1981年生まれ、バブルが崩壊した頃は10歳前後でした。10歳以前の記憶など曖昧ですから、物心がついてからというもの、日本経済が壊れていく過程しか見ていない世代です。 

 「真面目に働く人が報われる社会を作りたい、それなら現場でどうすればよいのかを学ぼう」、そのような思いを描いて政治家事務所の門を叩きました。                  
 
 大学に籍を置きながら、自民党事務所で数年間、ほぼ休むことなく朝から晩まで身を粉にして働きました。その後、与野党の枠を出て選挙戦略の組み立てや首長のマニフェストづくりの仕事に数年間携わりました。こうした一連の活動の中で、事務所に出入りしていた政治家、役人、財界、利益団体、宗教団体、左翼 団体、NGOといったさまざまな方や団体とご縁が出来ました。彼らとの触れ合いの中で得た経験が今の 自分の根幹となっています。


 しかし、その中で僕は気づきました。現代の日本の政治・経済を悪化させているのが「談合とやらせ」だということに。「談合とやらせ」が何をもたらすか。増税と規制です。 そして、日本が壊れて行くのを止める方法は、減税と規制廃止しかないと確信するにいたりました。なぜ減税と規制廃止が日本を救うのか。本書でゆっくりお話ししましょう。

 僕がこの本で語る事の骨子は、アメリカの保守派、特に自由な経済を標榜するキーパーソンである全米税制改革協議会議長グローバー・ノーキスト氏の主張に沿ったものです。ノーキスト議長の著作には、減税のバイブルとも言われる"Leave Us Alone”(未邦訳、2009年)があります。タイトルを直訳すると”放っておいてくれ”。「少ない税金こそが国を富ますのである」と、いかに減税が国にとって大切であるかを説き、どうやって減税を実現するかの方法論を綴っています。  

 ノーキスト氏は、税金を無駄遣いし、利権をむさぼる連中を”Taking Coalition(利権をよこせ連合)”と呼び、これに対して、減税や規制廃止に立ち上がった人々を”Leave Us Alone Coalition(放っておいてくれ連合)”と名付けています。「国民・有権者は、自分たちがすべきことを知っている、お前たちから制限や指示を受けたくない」という自主独立の精神にあふれたネーミングです。 敵である「利権をよこせ連合」に立ち向かうため、アメリカでは実行力を持った「放っておいてくれ連合」が形成され、実際に成功を収めています。その考え方や方法には普遍性があり、日本でも実際に実行できます。

 アメリカでは、Leave Us Alone Coalitionというフレーズは違和感なく浸透していますが、日本語訳の「放っておいてくれ」にはやや投げやりなニュアンスが含まれているので、本書では「税金を下げろ連合」と意訳しました。 かつては、アメリカも、税金が上がり続ける国でした。しかし、1980年代から90年代にかけて、税金や規制を廃止する動きが活発化しました。これは当時、主に経済面で日本に敗北を喫しそうになったアメリカが起死回生をかけて挑んだ取り組みだったと言えます。

 一方、日本は逆に税金も規制も増え続けました。それらを縮小しようとする取り組みは恰好だけ何度も行われましたが、仏作って魂入れず、有権者による政治的な支えがなかったために実際にはまるで効果がありませんでした。だから、1980年代にはジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた日本がその後、没落していったのです。

 アメリカは復活し、成長する元気な国であり続け、覇権国家として今も世界に君臨しています。減税によって需要を喚起し、規制廃止で供給力を高め、国家としての競争力を取り戻しました。減税と規制廃止に成功したかどうか、そこで日米の明暗が分かれたのです。

 しかし、腐っても鯛と言いましょうか、途上国と違って日本にはポテンシャルがあります。今の日本は税金や規制によって発展が阻まれているだけです。では、どうしたら増税ループや規制地獄から抜け出せるのか−、そのモデルはアメりカが提示してくれています。

 さて、今の政治には不満だけれども、どうすればいいかわからない。そんな思いを抱いている方は多いのではないでしょうか。

 本書のテーマである「税金」や「規制」が日本の発展を妨げているのだと聞いても、それが一人一人の生活にどう結びついているのか、ピンとこない人がほとんだと思います。しかし、実は気がついていないだけで、大いに関係があります。

 なぜ、日本からグーグルやアマゾン、またはツイッターやフェイスブックのような世界的な大企業が生れないのか。また、いわゆる弱い産業とされている日本の農業は本当に弱いのか。今のいびつな教育は何とかならないのか。

 それもこれも、すべて税や規制の問題です。

 かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた日本が、アメリカに突き放されるとともに中国に抜かされたのは、なぜなのか。この差は何なのか。 本書を読んでいただければ、その理由が明かになることでしょう。

(一部抜粋・著者了解済)
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民撰議員設立建白書(口語訳全文)
渡瀬裕哉

 私たちが本提言に至った経線は、この件がそもそも日ごろの持論であり、私たちが政府内にいた際にしばしば上申した者もおりました。そうしたところ、条約を締結した欧米諸国へ使節団を派遣中であり、実際の状況を調査した上で検討して議会を設けるべきとの評談がありました。しかしながら、もはや使節団が帰国して既に数カ月がたっておりますのに、どのような議会開設に向けた動きもなされておりません。近頃の人民の心情は騒がしく、上下を疑っており、国が崩壊する兆しがないともいえない勢いです。結局、人民的な議論が八方塞がりであるためにこのような事態に至ったと非常に残念に思っております。それ故に、議会開設についてご検討されるべきと考えます。

 私たちが現在の政治権力の帰属するところを考えてみると、上は皇室でもなく、下は人民ではないと思います。ただ官僚にのみ帰属しているのです。そもそも、官僚は「皇室を敬っている」と言っていないわけではありません。それにもかかわらず、皇室の権威は少しずつ失われています。また、官僚は、「人民を保護する」と言っていないわけでもありません。しかしながら、政府による規制は非常に多い上に、朝令暮改され、政治は情実で動き、賞罰は個人的な感情で決定されており、言論の自由はなく、苦情を訴える方法すらないのです。そもそも、このような状態で、社会の秩序が維持されると考えることが間違っていることは、子どもでもわかることです。現状のまま放置すれば、おそらく我が国は崩壊してしまうでしょう。このような状況では、私たちの愛国心がおさえられないのは自明の理です。そこで、この状況を解決する策を研究したところ、ただ人民的な議論を発展させることだけが解決策であるとの結論に至りました。そして、人民的な議論を発展させるには、人民から選ばれた代表による議会を開設することだけが、その手段であるのです。つまり、官候の権限を制限すれば、上下ともに安全で幸福な生活を受容できるのです。ぜひ、この点について論じさせてください。

 そもそも、政府に対して納税の義務がある人民は、政府の状況について認知し、政策の可否を議論する権利をもっています。これは天下の通論であって、私たちがこれ以上とやかく余計なことを言うまでもないことです。それ故に、私たち臣として、官僚もこの大原則に反対しないことを願っています。現在、人民の代表からなる議会を設立するとの提案に否定的な人間は、「人民は無知蒙味で、未だ開明の域に進んでいないため、議会を作るのは時期尚早でしょう」と言います。しかし、私たちは、こうした反対論者の意見を疑っています。人民を啓蒙し、知識を与え、開明の域に進ませようとするならば、人民の正当な権利を保護し、人民に政治に対する自信と誇りを持たせ、社会と楽しいことも辛いことも共にする気持ちを起こさせなければならないのです。このようにすれば、古臭い考えに安住して、無知蒙味な状況に自分で甘えるような人民はいなくなるでしょう。しかしながら、現在は、人民が自分で勉強して教養を得て、自ら開明の域に達するのを待っているだけです。これでは河の水が綺麗になるのを100年眺めているのと同じです。ひどい反対論者は、「今、議会を急いで作っても、日本中の愚か者を集めるだけでしかない」とまでいいます。ああ、こういった人は、どうして自分をひどく高みに置くくせに、人民を馬鹿にするだけなのでしょう。確かに、官僚の中には、才能が一般より高い人もいるでしょう。でも、どうして学問をし、教養をもったはずの人が、世の中のすべての人を超える人間なんていない事を知らないのでしょうか。だから、人民をこのように馬鹿にしてはいけないのです。もし馬鹿にして良いのならば、官僚もまた馬鹿にされる中の一人でしかないかもしれません。もしそうなら、同じように勉強不足で無教養な人間なのです。わずかな官僚による専制と人民的な議論が発展するのと、どちらが賢明かはどうでしょうか。私たちが思うに、官僚の知識と言っても、明治維新前よりもきっと進んでいると思います。なぜならば、人間の知識というものは、これを使えば使うほど進歩するものだからです。だからこそ、人民の代表からなる議会を設置することは、とりもなおさず人民に勉強させ、教養を与え、そうして急速に開明的な域に導く方法なのです。

 その上、そもそも政府の仕事の目的は、人民が進歩できるようにするためにあります。未開で野蛮な世界の住民は、勇猛で猛々しく従うところを知りません。その場合の政府の職務は、人民を従わせることになります。現在、我が国はすでに未開ではありませんが、人民の従順さはすっかり度を越しています。そうであれば、今の政府がちゃんと目的とするべきなのは、やはり人民の代表からなる議会を設置し、人民に果敢な行動を起こす気にさせ、社会のことを分かち合う義務を認識させ、社会のことに参加できるようにすることにあります。これは日本全国の人間がみな同じく考えていることです。

 そもそも、政府が強靭になるのは、何によってでしょうか。それは、社会全体の人間がみな心を一つにするからです。私たちは、決して遠い昔のことを挙げて論証するのではなく、ひとまず昨年の征韓論争に端を発した政変に沿ってこのことを見てみましょう。これは本当に危険極まりないことでした。政府が孤立したのはなぜだったのでしょう。征韓論争に端を発した政変について、喜んだり、憂いたりしたりするどころか、ぼんやりしてこの問題を知らなかった人間は、人民の8割、9割はいました。彼らはただ、軍隊が解散されたことに驚いただけでした。今、人民の代表からなる議会を開設するということは、つまるところ、政府と人民の間で真心が通じ合い、そうして手と手を取りあって一体となってこそ、はじめて国家と政府は強靭となるのです。

 以上、私たちは社会の大原則について述べつくし、我が国の今日の情勢について実情を述べ、政府の職務について論じ、そして、征韓論争に端を発した政変について振り返ってきました。これにより、私たちは、いよいよ自説の正しさを確信しています。社会の平穏を維持し、奮い起こす手段は、人民の代表からなる議会を設置し、そうして政治に対する人民的議論を発展させることにしかないということを、私たちは切に訴えます。その為の具体的な手段について、私たちは決してここでは述べません。十数枚の提言書では、とても書きつくせるものではないからです。ただし、私たちはひそかに聞いた話では、最近の官僚は、慎重論にかこつけて、多くのことを旧態依然のままにし、世の中の改革を主張する人間を、「軽々進歩」と呼び、その意見を「尚早」の二文字で拒絶します。このことについても論じさせてください。

 そもそも、「軽々進歩」と呼ぶことは私たちには理解できないことです。もし、にわかに物事が出現してしまうことを軽々に進む者とおっしゃるのでしたら、人民の代表からなる議会は、物事を注意深く検討するシステムであるということを訴えたい。各省庁間の調整が不調で調整し直す際に、本来の目的や緩急の秩序を失って、お互いの施策を良く見ないことを「軽々進歩」とおっしゃるなら、それは国家に規範がなく官僚が意に任せて勝手なことをしているからではないか。以上の二例があれば、まさしく人民の代表からなる設会を設置しなければならない理由が証明されたことは明らかです。そもそも、進歩とはこの世で最も素晴らしいものであって、全ての物事は進歩しなければならないのです。そうであれば、とりもなおさず官僚は、決して「進歩」の二文字を罪とすることはできません。批判することがあれば、必ず「拙速」の二文字で止まるでしょう。ですが、「拙速」の二文字は、人民の代表からなる議会と無縁です。

 「尚早」の二文字を、人民の代表からなる議会に対して当てはめるのは、私たちは理解できないだけでなく、強く反対します。なぜならば、人民の代表からなる議会を設置したとしても、おそらく長い年月の後に、はじめて十分に完全なものになると思われるからです。だからこそ、私たちは一日でも設置が遅れることを危惧し、尚早論にただ反対せざるを得ないのです。

 また、官僚は次のように説明します。「欧米各国の議院は一朝一夕に設立されたものではなく、徐々に進歩してきたことで達成したのだから、我々がにわかに模倣することはできないのだ」と。しかし、徐々に進歩するのがどうして議会だけなのでしょうか。あらゆる学問、技術、機械、みな同じように徐々に進歩してきました。ですが、欧米諸国が数百年の長きにわたって積み上げて議会政治を達成したのは、それ以前に成文規則がなく、みな自分の手によって経験し編み出したからです。今の私たちが、その成文規則から選び出して採用すれば、どうして欧米諸国の議会政治の域に到達することができないでしょうか?もしも、「私たちが蒸気機関の原理を自分で発明するのを待ってからでないと、蒸気機関を使えない」であるとか、「電気の原理を自分で発明してからでないと、電信を使えない」などと言うのでしたら、政府は本当に何も出来ない存在でしょう。

 以上、私たちが、人民の代表からなる議会を設置しなければならない理由、そして日本人の進歩の度合いが議会を設置するに十分に値することを論じてきたのは、官僚の反論を封じ込めるためではありません。議会を設置し、人民的議論を発展させ、人民の正当な権利を確立し、社会の活気を鼓舞し、そのことにより上下が親しみ近づき、君臣が相愛し、帝国を維持して奮起させ、幸福と安全をもたらすことを願ってのことです。この提言を幸いにして採択していただけることを願っています。


(2023年7月18日 掲載了解済) 

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自由民権運動の壮士たち  第1回 天春文衛(三重県)
「減税将軍(地価修正将軍)」と呼ばれた男
中村英一

明治の始めに三重県では、減税を求める大規模な一揆が起こりました。そしてほぼ同じ時期に茨城県でも、こうした一揆が起きたのですが、明治政府はこのような動きを受けて減税を行ないました。この三重県での大規模な一揆は、東海大一揆(伊勢暴動)と言われていますが、この地域ではこうした減税を求める大衆的な運動がその後も続けられます。そうした運動のリーダーとなって、当時「地価修正将軍」現代風に言うならば「減税将軍」と呼ばれた、天春文衛(あまがす ふみえ)という人がいました。

明治時代となって、それまでのお米による納税のやり方が大きく変えられる事となりました。収穫できる米の量は毎年変わるので税収が不安定となるため、納税の仕組みを大きく変える必要があったのです。まず土地の価格(地価)を決めて、その地価の3%を地主がお金で納税する事としました。こうした納税システムの大改正は、地租改正(ちそかいせい)と呼ばれる一大国家プロジェクトでした。

この地租改正の作業が進められていく中で、納税者である農民に大きな不満が生まれて行きました。ある年の夏に、現在の三重県松坂市で大規模な洪水被害が発生します。洪水で水に浸かった大量の不良米が発生してお米の価格は下落し、農家の収入は大幅に低下する事となりました。しかし、納税の基準となる地価は、以前のお米の価格に基づいて決められていたため、この年に納める税額は農民からすると30~40%ほど高いモノになってしまったのです。

こうした状況の中で三重県の各地の農民たちは、減税や、お金ではなくお米での納税を請願する活動を行ないます。そして松阪市では、洪水の被害を受けた農民約1000人が請願のために市内にある県の出張所へ押し寄せ、納税先だった三井銀行を焼き討ちするという事態に発展します。こうした行動は、三重県各地に広がり、岐阜県や愛知県まで広がる事となったのです。

約1週間続いたこの行動は、焼き討ちの被害が約2300件、死者35名も出す大規模なモノとなりました。しかしこうした行動は、暴動のような無秩序的なモノではなく、江戸時代の村役人といった地域の指導者層に指導された秩序ある行動であり、焼き討ちの対象の多くも、官の施設とそこにあった税金関係などの書類だったのです。そのように、増税を進める新政府に対する反対行動としての、減税を求める行動であったという点から、かつては「伊勢暴動」と呼ばれたこの行動は、現在では「東海大一揆」と呼ばれています。

この一揆に対して明治政府は警察や軍隊を出して鎮静化を図り、5万人以上が逮捕されましたが、死刑が1名、終身刑は3名、懲役1年以上は77名と、この時代としては比較的緩やかな処分で収まりました。これは、当時鹿児島県での西郷隆盛(さいごう たかもり:明治6年の政変で下野し、西南戦争で政府軍に敗れる)を中心とした不穏な情勢があった事と、地租改正の事業をスムースに進めていくためだったと言われています。

そして、当時の明治政府のリーダーであった大久保利通(おおくぼ としみち:日本の官僚機構の基礎を築く)は、この事態を受けて地租を軽減する事を決意。前島密(まえじま ひそか:郵便制度を創設)に減税を提案する文章を作成させて閣議にかけ、地租率を3%から2.5%に軽減する事を決定しました。これによって国家の歳入が20%近く減らされたため、それに応ずる形で行政改革が進められ、省庁の統合や大量の人員整理が行われました。「やれば出来るジャン!」という感じで(笑)、現在でもその気になれば大幅な行政改革も不可能ではないという事なのかもしれません。

そして、税の負担に関する合意を形成するために、地方議会を開設する事ともなりました。これによって、税金についての国民からの異議申し立ては、一揆のような非合法な形ではなく、地方議会という合法的な制度を通して行う事が出来るようになったのです。こうした点からしても、東海大一揆がもたらした影響は極めて大きなものがあったのです。

こうした中で進められた地租改正の作業では、いったん決めた地価を5年後に修正する事となっていました。しかし政府は、これを更に5年先伸ばしする事とした上で、地価が不適切な場合は、特別に修正する事が出来るとしました。これを受けて、三重県下の300以上の村では、地価の特別修正を求める請願運動が起こされました。この運動の中でも特に強力な運動が展開されたのが、現在の四日市市にある朝明(あさけ)郡中野村という地域でした。新たに開設された三重県議会で、この中野村から県会議員に選ばれたのが、地元の大地主である天春文衛という自由民権家だったのでした。 

天春は、それから約10年後に開設された衆議院の第1回選挙で当選し立憲自由党に所属します。そして、「政費節減・民力休養」というスローガンを掲げる民党(自由民権運動側の政党)の一員として、減税を求める議会活動を行なっていきました。この減税を行なう上では、税率を下げる方法と、その税率をかける地価を下げるという、二つの方法がありましたが、天春たちは地価を下げる事を目指します。そして、天春自らが発議者となって「特別地価修正法案」を第1回議会で提案しますが、衆議院で否決されてしまいます。この時、三重県下では18000名以上の請願署名を集めて、地価修正法の成立を求める請願書を提出するという、大衆的な運動も取り組まれました。天春の議会内での行動は、そうした大衆運動をバックにしたものだったのです。

そして第2回議会では、天春ら3名の衆議院議員によって「田畑地価特別修正法案」が提案され、衆議院で修正された上で可決する事となりました。しかし、政府と民党の対立が激化して衆議院が解散されてしまったため、法案も不成立に。その後天春たちは、地価修正を求める運動を全国的に広げて行きます。そして、地価修正請願同盟の事務所も東京に設置されて、全国的な運動が展開されていく中での第3回議会では、「田畑地価特別修正法案」が衆議院で修正可決。しかし、貴族院で否決される事となってしまったのです。

こうした地価修正を求める減税運動が、天春たちによって一歩一歩進められていったのですが、日清戦争が起こった事などによって、軍事力増強のために地租増税を求める声が国内では多数派となっていきました。こうした状況の中で、陸軍のドンである山縣有朋(やまがたありとも:東京目白にある椿山荘はその邸宅跡)の内閣によって、「地価修正法案」と同時に「地租増徴法案」が提案されて成立。地価修正がようやく実現された一方で、地租率が2.5%から3.3%に5年の期限付きで引き上げられて、結果として増税が行われる事となってしまったのです。

その地租増税の期限である5年後が近づくと、三重県津市では増税の継続に反対する農民大会が、300人以上の参加で開催されます。そして、「地租増税の継続に反対。増税を財源とする海軍の拡張計画に反対」とする増税廃止運動が起こり、翌年には津市で1000人規模の集会が行われるほど運動は拡大します。しかし、その翌年に日露戦争が始まったために運動は沈静化。「戦時非常特別税」として、さらに5.5%に増税される事となってしまったのです。

そして日露戦争が終わると、特別税は戦争終了後1年で廃止する約束だったとして、特別税の廃止を要求する運動が三重県一志郡(現在の津市、松阪市)で起こり、一志郡16か村の農民から特別税の廃止を求める請願書が、国会に提出されました。そしてその3年後には、特別税の廃止を要求する三重県農民大会が、1000人以上の参加で開かれ、地租の軽減と農産物の関税引き上げを要求する農民組織の結成が決議されて、天春らが理事に就任しました。そして翌年、特別税による地租5.5%は4.7%に軽減されて、ようやく減税が実現される事となったのです。

こうした減税運動を続けてきた天春は、当時「地価修正将軍」現代風に言うならば「減税将軍」と呼ばれたと言われています。また天春は、明治時代の終わりに、現在のJA三重の前身組織である三重県農会の副会長に就任(会長は県知事)。実質上の組織のトップとなった天春は、80才で引退するまでの17年間、農業技術改良など様々な農業事業を推進しました。そして、その功績をたたえて天春の銅像も建設されたのですが、第二次世界大戦中に軍事物資のために供出。現在は、その台座の上に供出された事を伝える石碑が建てられて、JA三重の敷地内にひっそりと残されています。 

さて、三重県が発行している『三重県史』よると、「(三重県では)組織的な国会開設運動は低調であり、自由民権運動の高揚もあまり見られなかった」とされていて、その部分だけを見ると、三重県での自由民権運動は「低調」であったかのように思ってしまいます。一方、安在邦夫・早稲田大学名誉教授によると、自由民権運動が目標とした主な事は、①憲法の制定、②国会の開設、③地方自治の確立、④地租の軽減、⑤不平等条約の改正の5つだったといいます。確かに、三重県での①憲法の制定や②国会の開設を求める運動は、「低調」だったのかもしれません。しかし、東海大一揆以来の④地租の軽減を求める運動の歴史に注目するならば、三重県は自由民権運動が最も「高揚」した地域だったとも言えるのだと思われます。

歴史は光の当て方によって、その見える姿が全く違ったものになってしまいます。現代につながるその貴重な歴史が、地域の人たちからすっかり忘れ去らさられてしまった結果としてある、天春の銅像跡。その姿を見ながら、減税や小さな政府を求める運動という光を当てる事で、全く違った自由民権運動の姿が見えてくるのではないかと、強く思った次第です。


(2023年7月23日 掲載了解済)
 

引用元記事
自由民権現代研究会

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